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日々の泡
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追悼トミー・キーン
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2017年2月20日 Feverの楽屋にて

トミー・キーンが亡くなった。2017年11月22日、LAの自宅で眠っている間にそのまま亡くなったとのこと。享年59。奇しくもこの日は僕の誕生日であったので、一生忘れられない日となってしまった。時差があるので実際には1日ずれということになろうが。フェイスブックで誕生日のメッセージがバンバン入ってきてたので、朝になって返事を書こうと思ってフェイスブックを立ち上げたら、トミー・キーンの訃報や思い出話などでタイムラインが埋め尽くされていて、自分の誕生日気分など吹き飛んでしまった。つい先日までマシュー・スウィートとツアーしてたはずだよね?インスタも数日前に上げてなかったっけ?というのがあって、とにかくビックリしてしまった。オフィシャルな声明が見つからなかったのと、最近は誤報の例もあるので、静観していたのだが、山本くん(ゆるマッチョ先生)がブラッドに確認したというので、本当なんだ、と認識した。

それから1週間ほど、ツアーメイトであったリック・メンクを始めとしてフェイスブックでの書き込みが止むことがなく続いていた。それらの熱のこもった書き込みを、多すぎるので拾い読みしながらぼんやりと思うのは、アメリカでの支持のされかたの凄さと日本のそれとの温度差である。日本公演にも全公演通うような強力なファンは何人かいたし、ライブに来てくれた人、レコードCDを買って聴いている人もそれなりにいるということは解っているけど、それは本国の熱狂のヴォリュームとは違うと思う。規模が大きければいいというわけでもなく、それゆえに僕のような者が関わる機会を得たということも言えるのだが。 インスタグラムに目を移し、タグで検索するとそこにはもちろんレコード、ライブの写真もあったが、ファンとのツーショット写真も多く上がっていた。トミー・キーンの支持されている度合に対しての彼自身のスターの自覚のなさというか、我々と同じ市井の生活者という視点で聴衆と接するということがよく表れていた。
僕自身は3回ほどライブ企画で関わっただけなので、友人とかいうのはおこがましく、人柄に深く踏み込んだようなことは書けるわけでもないのだが、以前書いたライブ・レポートが中途半端に終わっていたので、この機会に続きを書いてみたいと思う。

 2015年のSmall Square来日への同行としてのトミー・キーンの初来日に関しては以前書いたこちらを読んでもらえればと思います。これも本人が亡くなった今となってはもっとコミュニケーションをとっておけばよかった言う気もするけど、それはもう叶わないことなので。とにかく2015年のSmall Square来日からの流れで2017年2月のトミー・キーンとしての来日の話も来たわけです。前回の記事ではゆるマッチョから直接電話がきたということを書いたけど、思い出した。違いました。直接僕に来たわけでは無くて、BabyBlueのメンバーに来た話で、それをこうじが僕に持って来た感じだったね。

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2017年2月20日Feverのライブ

トミー・キーンのキャリアは長く、ファン層は意外と幅広い、という想定のもと、今であればいわゆるUSインディや90s~のパワーポップのファンをメインとして、我々界隈のパンク~パワーポップのファンは別切りでやる、ということで、企画することとなったんだと思う。長いこと企画やってて、この2つは近くにいるようであまり交わることがなく、企画の際にサポート・バンドのバランスがいつも考えどころになるというのは事実なので、これは賢明な判断であったと思う。インディ系のファンの方々には我々の好むロックンロールをベースにした音楽や我々の姿勢みたいなものが敬遠される傾向はあるとは理解している。しかし、トミー・キーンこそはそのキャリアを通して「姿勢」を表出していたロッカーなのではないかな?とも思っている。とはいえ、許容の範囲がとてつもなく広いから、筋は通しつつも柔軟でもあり広い層に支持されるのかもしれないね。会場探しは難航したけど、ペンギンハウスに落ち着いた。トミー・キーンにしては小さすぎるかも、という懸念も大いにあったけど、金銭的な条件の良さ、音の良さの点でもここしかないだろうということになった。
ツアー中、東京のメインはその前日のレッドクロスの企画であり、我々の方は追加的なものであるという勝手な考えのもと、で、あれば自分のレーベル色を出してやろう、ということでRockbottom, Beat Caravan, Thunderroads, Triple Junkをブッキングした。バンド数が多すぎだろう、という意見もあったし、自分もそう思うところもあるけど、日本のバンドも観て行ってもらいたいよね、っていう気持ちでいつもやってるからこうなる。Triple JunkはTarget Earthからリリースしているバンドではないけど、この企画にピッタリだと思えたので自分としてはどうしても入れたかった。

トミー・キーンのキャリアの初期はRAZZというバンドのギタリストであった(それ以前に高校の同級生のニルス・ロフグレンの弟とやったバンドもあったと言われる)。RAZZとスリッキー・ボーイズはDCエリアのパンク/ニューウェーヴ・バンドとしてはかなり早い存在であった。RAZZは77年には最初のレコードを出しているし、スリッキー・ボーイズは76年に最初のレコードを出している(ティーン・アイドルズの結成は79年、バッド・ブレインズの結成は78年である)。その後82年にソロ・デビューするわけだが、この原点を知っていると彼のライブでの実演奏にハードさが感じられるのも納得がいく。ここ数日の日本語での追悼書き込みの中ではトミー・キーンはとにかくすごくよい人で明るく、フレンドリーであったというものが大半で、それはほぼそうなんだけど、僕としてはもとパンク・ロッカーらしい不穏な雰囲気や筋の通った頑固さみたいなものも同時に感じていた。そして、僕はそういうガッツが音楽にも表れている人に惹かれるみたいである。

2/20のFEVERのライブはわりと直前に近い形で決まった追加公演であった。MOORWORKSさんが入れていた予定が中止になってしまったとのことで、トミー・キーンをやるということになったようだ。しかし前後の日程が関西だったので、とんぼ返りするようなスケジュール感であった。月曜でもあるし、集客は厳しいだろうな、と思ったけど、これはやるしかないな、という感じでオープニングにBabyBlue、DJが僕ということでやった。なるべく多くの友達に声掛けしたけど、まあ月曜でもあるし厳しい感じで、来てくれたひともいたけど、それほど多くなかった。でも、ライブはすごかった。上に書いたようにアメリカと日本での人気度の差ということでもあるんだろうし、みなさんいろいろ事情はあるんだろうからしょうがないけど、わー、マジでもったいないよな、と思った。そのときはまさか死んでしまうとかはこれっぽっちも考えなかったけど、次いつ観れるかわかんないのにね、と。自分の宣伝力の無さ?とかいろいろ自分にも理由はあるだろうけど、これは次のペンギンハウスは満員にしないとな、と思った。よくSNSで見るけど、「あー、知ってたら絶対行ったのに~」っていうのは、中にはホントにそうだった人もいると思うけど、ほとんどは知ってて行かない人だと思っている。まあ、それぞれにそう言わなきゃならない理由はあるんだろう。
このときは少し時間に余裕があったのでFEVERの広い楽屋で、トミー・キーンと少し話をした。僕はだいたい音楽的な話はこうじにまかせて、他愛のない話をするのを常としている。このときも世間話のようなかんじで少し話したけど、いま思うともう少し深く話をすればよかったかな。ベースのブラッドは日本在住なので、いつもの来日ツアーとは違って、バンドの世話は基本的にブラッドにお願いしておけばオーケー、という理由もあって、トミー本人とはあんまり話をしなかったのかもしれない。
ドラムはハンター・キーン、トミー・キーンの甥である。ニューオリンズでPUDGEというハードコア・バンドをやっていて、すごくパワフルなドラミングをするやつだ。僕がDJしてるとちょいちょい話しに来たり、リプレイスメンツあるか?などと言ってきたりして(たまたま持ってきてたので掛けれた)、フレンドリーな奴だ。
 ライブが終わって彼らはすぐに大阪に向けて帰っていった。われわれはペンギンハウスでの再会を約束して。

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2017年2月26日ペンギンハウス

ペンギンハウスのライブは、家庭の事情もあり、リハはロックボトムに仕切ってもらって、開場前のギリギリな感じで到着。ゆるマッチョ先生は前日レッドクロスのDJでもあったので、ペンギンハウスにも来ていたが、体調が悪く、そのまま帰ることに。できれば彼にもオープニングバンド含めて観てもらいたかったが、しょうがない。
 しかして開場の時間になり、客は最初からほぼパンパンに入っていた。大多数は普段の我々の企画に来てくれている人だったので、オープニング・バンドたちの演奏もみな楽しんで観てくれていたようだ。長ぇな、と思った人はごめんなさいだけど、ペンギンは再入場ありなので、みんな自由に出入りしてくれていたとは思う。トミー・キーンも日本のバンドたちを観てくれたりして楽しんでくれていたように見えた。

 トミーの演奏は、会場の雰囲気のせいか、FEVERで観たものよりもよりラフで身近に感じられた。大き目の会場のキッチリした音と、こういうところでのラフな音が両方聴けたのはラッキーだったな。実際の演奏を聴く前、レコード、CDで聴くトミー・キーンには良質なソングライターとしての面を強く感じていたのだが、目の当たりにするとその曲の良さに加えてギタリストとしての強烈さをビンビンに感じた。完全に普段着としか言えない佇まいは一見地味に感じる人もいると思うけど、パワーポップという範疇にいながらもゴリっとした演奏というのはホントにカッコいい。
 終演後は皆のサインや写真の希望に気さくに答えていた。僕はいろいろ雑務もあり、みなの会話も邪魔するわけにもいかないので、またほとんどしゃべらずで帰らなければならない時間になってしまったので、ギャラはブラッドに渡し、トミーやハンターに挨拶して帰った。ボトムとは高円寺駅前の格安中華、福来門に行ってちょっと打ち上げしたようだ。あとで聞いた話では、うまくて安いので驚いたって(笑)。

 以上がレポートとなります。あんな曲やってくれたとか細かい話もあるにはあるけど、長くなりすぎたので。

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 後日談としてひとつだけ。
 僕がブッキングしたTriple Junkのことをトミーがスマホで撮っていたのは見ていたんだけど、動画をインスタにアップしたんだよね。
 (そのインスタ投稿はこちら

これにはうぉーっ!ってなったよね。気に入ってもらえるんじゃないかとは思ってたけど、動画も上げてくれるとは。このツアー中の投稿で日本のバンドを上げたのはこれだけだったというのはお世辞じゃなく好きだったと理解している。僕は速攻でシンくんに連絡して、シンくんはその投稿にコメントしてそこに”You guys were great!!!!!!!”ってコメントを返している。これだけでもTarget Earth企画入れてよかったな、と思えたよね。
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一道くんについて
佐藤一道くんのことは、クッキーシーンの編集者として知った。何年頃?もう10年以上前だろう。
そのころ、僕はクッキーシーンで連載コラムを持っていたこともあって、一道くんとも幾度となく会う機会があった。基本的に僕は編集長の伊藤さんと話をするのだが、なんらかのイベントなどあると会う機会もあった。僕は彼のことを「一道くん」と呼んでいた。単純な話で、もう一人佐藤聡くんという編集者もいたので、区別するために下の名前で呼んでいたというだけだ。周りでは彼のことを「ネギ」と呼ぶ人もいた。由来は知らない。

一道くんは、簡単にいえばシャイで、かつナード感の濃い男だった。しかし、彼の書く文章は実に考えられたもので、ダイナミックな、強引とも言える比喩表現は、深い考察から生まれるものだろうし、そこはかとないユーモアも持ち合わせているので、その対象となった音楽を知らなくても興味深く読めるものであったし、また、読んだ後は音をチェックしてみたいと思わせるという、優れたものであった。

彼は、シューゲイザーのガイドブックを黒田さんと共著で出したり、そのあとはパフュームを入口としてアイドルにも言及することが多くなったが、実はもっともっと広い範囲で音楽を掘っている男だった。60s,70sのロックの話なんかも普通にできたし、STAXのTシャツ着てたりしたから、ソウルの知識もあるのだろう。僕はクッキーシーン執筆陣の中では本筋とは外れているというか、いわゆるインディ・ロックに関してはほぼ書くことがなかったが、それでも編集のみんなとは色んな音楽の話をすることができた。それは伊藤さん含めてみんなの懐の深さというか、伊藤さんが、インディのみを狭く深く聴くよりもいろいろ聴いている人を編集者として選んでいたというのが大きいのだろう。僕はこんな感じだから、一道くんと話すときもいろいろ毒っ気のある話をしてしまうんだけど、彼はにやにやして聞いてくれてた。その表情が印象に残っている。

しかしながら、一道くん、と清水くんはクッキーシーンを離れて自分たちのメディアとしてモンチコンというブログを立ち上げたわけだ(初期には同じくクッキーシーンのライターでもあった山本くんa.k.a.ゆるマッチョ先生も関わっていた)。さらにはKikiというジンを作り、モンチコンは書籍化もした。僕は、長く関わっていた割にはクッキーシーンの内部事情にはそんなに詳しくないのだが、クッキーシーンが紙媒体であることを止め、ウェブに移行し、紙ではムック形態で出すことを試していた時期と重なる。伊藤さんも新たなことを始めるにあたってメンバーの刷新を図った時期でもあった。僕も長くレギュラー・ライターとして関わっていたが、ウェブ化して少し関わったのち、徐々にフェード・アウトしてしまった。僕がフェードアウトしたのは主に僕自身のぐうたらに理由があるが(ウェブなので、締め切りが無い、またはゆるい、など)、一道くんはどうだったのだろうか?

モンチコンの立ち位置を見るとそれはなんとなく見えてくるような気がする。ウェブに移行しつつもマネタイズの方向性を模索している(ここ、間違ってたらすみません)クッキーシーンとは対照的にあくまでもファン・ベースで対象について自分たちなりに深く書いてみようという動き。そして、スピード感と量。紙媒体でもそうだけど、広告出稿に対しての記事比率が多くなると、歪みが出てくる。なので、生活が掛かっている人からすれば夢見がちな甘っちょろい話だけど、「音楽」にフォーカスするなら、広告に縛られることは切り離さなければならない。そもそも対象としたいアーティストに広告がつくかどうかという問題もある。だから、一道くんは他方で依頼ベースのライター仕事もしつつ、ある程度自由に動けるところとしてモンチコンという場を中心に据えたのではないか、と推測する。モンチコンに対して、「ウェブで拾ってきた情報の寄せ集めではないか?」という声も少し聞いたことがあるが、そうだろうかね?いまの時代の取材の仕方、それを模索するのであれば、点で発信されているものを集めるという作業も必要であるし、モンチコンの2人は、現場にもいるんだよね。かといって関係者面するとかじゃなくて、好きだから観に来てるって感じ。ネストの上の階でライブ見ないでずっとしゃべってるやつとかいるけど、そういうのとは違う、というか。僕は彼らとは普段あまりやりとりしてなかったけど、ライブ会場では彼らをよく見かけたし、そこで会って少し話したりすることもあった。

僕としては、そんな彼らを遠くから見守っていた、といえば偉そうだが、頭の隅では気にしつつもあまり関わりを持つことが無くなっていた。一道くんとの関わりで最後になったのは、2011年に音盤時代という雑誌の中でアリエル・ピンクについて書いた文に僕が写真を付けたものだ。アリエル・ピンクも一道くん、清水くんには関わりが深いというか、まだぜんぜん有名になる前に、彼らがDIYスタイルで招聘したのだった。僕はそういう経験があったから、少しアドバイスしたりしたが、そのライブは成功したか、そうではなかったかは聞かなかったが、大変であっただろうことはなんとなく伝わってきた。その後ホステスからリリースして再来日となり、かなり盛況だったが、その時の写真を使わせて欲しいということで、一道くんからメールが来たのだった。

それ以降は直接の絡みはなかったが、彼らは面白いことに、これも元クッキーシーンの編集者である小熊くんと、雑誌コンテキストを立ち上げる(小熊くんもまた振り幅の広いリスナーであった)。彼らのナード感と悪ふざけ感をスタイリッシュにまとめるという、面白い雑誌であった。その2号目が準備されている、という話の中、一道くんは亡くなったようだ。僕は清水くんがモンチコン上に書いた文によってそれを知った。死因は知らないが、12月にソニー・スミスのライブで彼に会っていて、そのときは元気(というか、いつものにやにや、という感じ)だった。だから、なんかあったのだろう。自分よりも若い人が亡くなるというのはショックではあるし、なんでだよ、、、と思う。その理由は、いつか誰かが僕に教えてくれると思うが、今日のところは、上に書いたような、僕の知っている一道くんを思いだしながら献杯したい。

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音盤時代の記事

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音盤時代より、アリエル・ピンクの写真

White Flagについて
25 year peace sign hi rez

今日はWHITE FLAGについて書く。
知っている人もいると思うけど、White Flagの中心人物Bill Bartell(a.k.a. Pat Fear)が9月14日に亡くなった。52歳。
White Flagの多国のレーベルからのリリースや西海岸パンク・シーンから始まるメンバーの遷移はあまりにも複雑でまとめるのは難しいだろう。誰か強力なコレクターがまとめてくれるのではないだろうか。そして、僕はそこまでのWhite Flagファンではなかったのだけど、僕のやっているTarget Earth RecordsではWHITE FLAGのEPを2010年に出している。なので、一般的に見たWhite Flagでは無くて、リリースに絡んだ思い出を書きたい。

始まりはなんだったか、よく憶えていないけど、BillがTarget Earthに興味を持ってメールしてきたのだと思う。日本で出せるとことを探している風だったけどね。日本盤ってことではWizzard In VinylがEternally Undoneってアルバムを出していたから、そこから出せばいいのでは?と言ったけど、7インチで出したい意向でそれでTarget Earthがいい、というような話だった。
正直にいうと、僕はそれほどWhite Flagに強い興味が無かったし、こういうような日本でリリースをしたい、というようなメールはよく来るし、それを真に受けてリリースして売れない例も多々あるので、もちろん断る方向で考えていた。

僕はWhite Flagに対しては、曲はいい曲あるけど、メンバーの名前やTater Totzといったサイド・プロジェクト含めて、パロディや冗談ばっかりで、なんかなじめない感じがあった。バンド名自体もBlack Flagへのあてつけのようなもんだし。ようするに、真面目にやってない印象があった。だけど、メールのやりとりを続けていくうちに、だんだんと、その冗談を常にかましたり、誰かをおちょくったりするというのが、彼なりのパンク表現なんだと思うようになっていった。悪ふざけするということにおいてまったくのブレがないし、たんに悪ふざけするのは簡単だけど、それをレコードにして出し続けるってことはなかなか大変なんじゃないかと思ったし、それにメールではけっこう真面目だった(意味不明のメールがやたら沢山きたし、そしてスペル間違いが多かったが、それも冗談なのかどうかはいまとなっては解らない、、、)。
で、Wizzardから日本盤も出てたし、知名度もあるからある程度は売れるだろう、と考え、なんとなく、出すという方向に気持ちが傾いていった。

Billが初めに送ってきた曲はBeatlesの替え歌だった。たぶん"Rain"かなんかだったと思う。まさに替え歌ってのがふさわしいというか、アレンジもまんまで歌詞だけ違うといった代物だった。僕は上にも書いたように、パロディってあんまりなじめなかったし、Beatlesに関してなにかやるとカネの面でめんどくさいことになるんじゃないかと思ったので、こういうのは止めてくれませんか?と言った。自分はショーン・レノンやオノ・ヨーコとも知り合いなんだ、とか言ってたけど、その方向を止めることは納得してくれた。
それで送りなおしてきた曲が全部良かった。パワーポップもパンクも入っている、Target Earthのことを理解してくれている感じがして嬉しかった。"Dido"という曲はタイトルに関しては以前のブログで書いたようにDidoの"White Flag"に対するあてつけであるが、そういうのは僕も嫌いじゃなかった。Greenの"REM"とかね。

デザインは宇佐美くんに頼んだが、それもまたいろいろ指定があった。簡単に言うと、Runawaysの日本盤シングルに準じたようなものにして欲しいっつうことで、うーんなんだかなあ、とは思ったけど、宇佐美くんがなんとか形にしてくれた。EPのタイトルは"Keepers Of The Purple Twilight "だけど、ぜんぜん関係ない邦題つけようぜ、ってことで宇佐美くんが"宇宙からの使者"っていうのを考えてくれた。使う写真とかいろいろ指定があって、めんどくさいなー、とか思いながらも楽しんでやることができた。

Billの希望で訳詞を載せることにした。これは、スティーブに頼んだ。これはどういう意味なんだろうか?言葉の意味はわかるんだけど、何のことについて言っているのだろうかなど、何度かやりとりをしたりした。
そうして、なかなかの自信作が仕上がった。ちょうどその頃、ジャームスのことを描いた映画「ジャームス 狂気の秘密」(原題:WHAT WE DO IS SECRET)が公開するっていう話を聞きつけ、チラシに宣伝を入れてもらったりした(Billはもともとジャームスの追っかけであり、この映画では時代考証で参加している。また警官役でのカメオ出演もしているのだった)。あとはKen Stringfellowが参加しているってのも売りになるだろうと考えた。Liquid Screenの今井くんはこのリリースを「快挙」だと言って喜んでくれた。まさか、White Flagが友達のレーベルから出るとは!と。僕は80年代のアメリカン・ハードコアを聴いている人にも響くのではないかと期待した。
しかしながら、このシングル、日本ではほとんど売れなかった。持ってるってひと、ほんのちょっとだろう。宣伝が足りないのは毎度のことだろうけど、売れなさ過ぎた。サクっと売れるようなら、来日もありかな、なんてうっすらと思っていたのも吹っ飛んでしまった。Billが亡くなってしまったいま思えば、無理にでもやっておくべきだったが、まあ、そのときはそうは思わないよね。
だけど、僕はこのシングルはすごい好きな一枚だと胸を張って言える。聴かなかったひとは残念だね。負け惜しみじゃないよ。
そして、このシングルが僕とKenを繋いでくれたとも言える。このシングルを切っ掛けにKenとのやりとりが始まり、アルバム・リリースやツアーに繋がった。
Kenとツアー中に雑談で、Billはやたらメールが多くって、もうメール送ってくんな、って言ったんだよ、って二人で笑ったりしてたんだけど、それももう来ないと思うとしんみりするよね。

日本ではBillのことを気にすることはあまりいないだろうけど、僕は、冗談を破壊的パワーに結びつけた、こんなユニークなパンク・ロッカーがいたということを忘れないだろう。一度も会えなかったのが残念だ。

また一人、、、
blueash.jpg
BLUE ASH 'S BILL BARTOLIN

このブログでも映像を貼り付けたこともあるけど
最近また復活してすごいライブをやっていたBlue AshのBill Bartolinが亡くなった。
パンク、パワーポップの偉人たちの演奏を聴く、または話を聞ける機会というのはますます減ってきているということだ。

合掌


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